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伊達政宗の家系図
伊達政宗(1567-1636)は、戦国時代末期に奥州をほぼ平定した伊達氏の第17代当主です。62万石の仙台藩・初代当主でもあります。幼少の頃に患った天然痘のために右眼を失明して隻眼ながら武勇に秀でた人物で、後世「独眼竜」と呼ばれました。
■伊達政宗の家族
出羽国米沢城で誕生した伊達政宗の家族構成は次のようになっています。
【両親】
父:伊達氏第16代当主・伊達輝宗
母:正室 最上義守(最上氏第10代当主)の娘・義姫
【兄弟姉妹】
弟:伊達政道(小次郎)1590年に死亡
姉もしくは妹:千子姫
異母兄弟:秀雄(のち大悲願寺住職)、女子(詳細不明)
【正室・側室・子女など】
正室:愛姫
側室:少なくとも7人
子女:伊達秀宗(長男・宇和島藩初代藩主 母は側室・新造の方か?)
伊達忠宗(二男・仙台藩第2代藩主 母は正室・愛姫)
五郎八姫(長女・松平忠輝室のち離縁 母は正室・愛姫)を含む10男4女
■政宗のルーツ(祖先)
伊達家の初代は伊達朝宗(ともむね)です。
鎌倉幕府の御家人・常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)が源頼朝の奥州藤原氏と戦った奥州合戦に従軍。その戦功によって伊達郡の地を与えられ、頼朝から「朝」の字を拝領して伊達朝宗を名乗ったと言われています。
歴代当主の中でも、注目は、南北朝から室町時代初期に活躍した「伊達家中興の祖」として讃えられた第9代の伊達政宗。時の鎌倉公方、足利満兼が弟の満貞(稲村公方)と満直(篠川公方)を奥州に派遣し、領土の割譲を求めてきましたが、これを拒み、鎌倉方と戦った1402年の伊達政宗の乱で知られます。
独眼竜で知られる第17代の戦国武将・伊達政宗の名は、この祖先にあやかったものです。
伊達氏は男子に恵まれ、第17代の政宗まで男系の血統が続いています。
■政宗の子孫
政宗の子孫の家系については、二男忠宗が継いだ仙台藩の伊達宗家と、長男秀宗の宇和島伊達家がよく知られています。
【仙台藩伊達家宗家】
伊達宗家の第18代当主と仙台藩第2代藩主を継いだのは、政宗の正室の子である二男の伊達忠宗。
1611年の忠宗の元服は江戸城で行われ、将軍・徳川秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った経緯もあり、二男ながら伊達宗家を継ぎました。仙台藩の地位と基盤固めに尽力した名君です。
宗家の系統は傍系から養子を迎えながらも血統を繋ぎました。第21代当主(仙台藩第5代藩主)の伊達吉村は、傍系からの養子ですが破綻寸前だった仙台藩の財政を立て直した「中興の英主」として知られます。
第29代当主(仙台藩第13代藩主)の伊達慶邦(よしくに)は、幕末1868年の戊辰戦争で「奥羽列藩同盟」を組織して、新政府軍に抵抗。敗戦後に、仙台藩伊達家の領地は28万石に削られてしまいます。
【宇和島藩伊達家】
伊達政宗の長男・秀宗は、かつて伊達家の家督相続者とみなされていましたが、1594年、政宗に伴われて秀吉に拝謁し、秀吉に人質として差し出される事になり、伏見城で養育されました。
秀吉から「秀」の通字を拝領して秀宗と名乗り、一時は豊臣姓まで授かったため、徳川政権下では仙台藩主を継ぐのは相応しくないと判断され、家督は10歳以上年下の弟、二男忠宗が継ぐことに。
そこで政宗は、父子共に戦った大坂冬の陣での戦功で得た伊予宇和島10万石を別家として興し、秀宗を宇和島藩・初代当主としたのです。
維新後には第8代藩主・伊達宗城による新政府での活躍もあって、宇和島伊達家は侯爵を授けられ、仙台本家の伯爵よりも家格が上回りました。秀宗公はどんなお気持ちだったんでしょうか?ぜひ、聞いてみたいものですね。
途中、養子を挟みながらも家系が現代まで続いています。
■現代に続く伊達家子孫
仙台伊達家の現当主は第34代目にあたる伊達泰宗氏です。歴史の専門家としてご活躍で、1987年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の監修を担当されました。
宇和島伊達家は、公益財団法人宇和島伊達文化保存会理事長の伊達宗信氏が現在第13代当主としてご活躍です。
現在お笑い芸人として人気の「サンドウィッチマン」の伊達みきおさんも伊達一族の一員です。ただし、伊達宗家の第9代・伊達政宗の弟・宗行が分家してできた「大條(おおえだ)」氏の末裔。大條氏は明治時代に伊達氏に復姓しています。
あの伊達政宗の子孫が現代でもご活躍されていることを知れば、家系も日本の歴史も「生きている」ものだと、つくづく感じます。
2020年8月
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