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上杉謙信の家系図
戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、越後の龍などと称された上杉謙信。
毘沙門天を熱心に信仰し、生涯不犯(妻帯禁制)を貫いたため、子供は全員養子でした。
したがって、上杉謙信の直系子孫と認められる人物はおそらく存在しません。
その点をご理解いただいた上で、上杉家の家系についてみていきましょう。
(謙信は生涯で何度か名前を変えていますが、当記事では謙信で統一しています)
■謙信の家族
謙信は越後の守護・上杉家に仕える長尾家出身です。
【両親】
父:越後守護代・長尾為景
母:越後栖吉(すよし)城主・長尾房影の娘・虎御前
養父:関東管領山内上杉家14代当主・上杉憲政(のりまさ)
【兄弟姉妹】
兄:長尾晴景(はるかげ)と長尾景康(かげやす)(*少なくとも2人の兄があったとされる)
姉:仙桃院(仙洞院)
謙信は長尾為景の4男((次男、三男説あり)の虎千代として誕生し、のち長尾景虎と名乗りました。
【長尾家家督相続】
長尾家の家督は兄の晴景が継ぎ、守護代を務めていましたが、病弱で政務に向かない性格のせいで国内が混乱。
そこで寺に預けられていた謙信が還俗し、晴景の養子になった上で家督と守護代職を受け継ぎました。
1550年には、将軍・足利義輝より越後守護を代行するよう命じられ、実質的に越後国主となったのです。
【上杉家家督と関東管領職】
北条氏や武田氏と対立していた主家である関東管領の上杉家をよく助けた謙信は、その功績によって上杉憲政の養子となり、1561年、鎌倉の鶴岡八幡宮にて、山内上杉家の家督と関東管領の職を譲られました。
武田信玄との有名な川中島での5回の合戦(1553-1564)は、謙信が越後守護代長尾氏の家督を継いだ直後から関東管領となっても続いた長い戦いだったのです。
■上杉謙信の祖先
【越後守護代長尾氏】
謙信の血の繋がったルーツは、上杉氏ではなく、長尾氏の系図を遡ることになります。
長尾氏の祖先、初代当主は平安後期の長尾景弘です。
高望王流桓武平氏の子孫です。
7代目当主・景忠の兄弟の長尾景恒が越後長尾氏の初代当主であり、謙信のルーツです。
2代目当主は景恒の次男・高景。
謙信の父親・長尾為景はその7代目となります。
家督は、8代目の謙信の兄・長尾晴景謙信に移ったあと、謙信が9代目当主となりました。
■「上杉家」を継いだ子孫たち
【御館の乱】
先にも触れましたが、上杉謙信に実子がいなかったため、直系の子孫はありません。
1578年に謙信が後継者の序列をあいまいにしたまま突然死したため、謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎(後北条氏出身)による家督争い「御館の乱」が勃発。
結局、謙信の甥・上杉景勝が勝利しました。
【米沢藩上杉氏】
上杉景勝は、豊臣政権の五大老を務め、会津藩120万石を領有する大大名となりましたが、1600年の関ケ原の戦いで徳川家康と敵対し、米沢藩30万石に減封。
米沢に移った上杉家は、幕府からは江戸時代を通じて冷遇されます。
それでも、藩の財政を見事に立て直したことで知られる24代当主上杉鷹山こと治憲など、多くの名君を輩出しました。
最後の米沢藩主は、28代当主の上杉茂憲です。明治維新後、米沢藩上杉家は華族に列し、伯爵を授けられました。
米沢上杉家は途中、家内での養子縁組を挟みながらも、26代斉定以降は直系が現在まで血統を繋げました。
現在、31代当主は、宇宙工学の権威・上杉邦憲氏です。
惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトチームの一員としてもご活躍されました。ご専門である宇宙工学の他にも、上杉家の当主ということもあり、上杉氏に関する公演活動なども行っておられるようです。
上杉謙信には直系の子孫はありませんが、歴代の上杉氏、長尾氏から受け継がれた血は脈々と現代に続いているのです。
2020年6月
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