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織田信長の家系図【後篇】信長の子孫
1582年、本能寺の変で明智光秀に討たれた織田信長。
その後、彼の子孫はどうなったのでしょうか。織田信長の家系図、今回は後篇「信長の子孫」です。直系、傍系を追ってみましょう。
■信長の婚姻関係と子供たち
信長の正室は、美濃の守護代・斎藤道三の娘・帰蝶(別称は濃姫もしくは鷺山殿)。父親の織田信秀と美濃の道三の同盟目的のための当時ではよくある大名同士の政略結婚でした。
帰蝶は明智光秀のイトコであったとの説もあり、信長と斎藤道三、そして明智光秀は親戚同士であったと考えられています。
信長と帰蝶との間には子供はなく、11名ほどの側室との間に、息子が少なくとも11人、娘は6人から12人ほどあった(諸説あり)と言われています。
戦国大名としては、珍しくなかったのかもしれませんが、現代からすると、ものすごい子沢山ですね。
■信長の妹・お市の方と浅井家の系統
信長の妹(姉とも言われる)お市の方は、政略結婚をしていた北近江の浅井長政との間に3人の娘・茶々、初、江がありました。
長女・茶々はのちに豊臣秀吉の側室・淀殿となり、豊臣秀頼を生みましたが、母子共に1615年の大坂夏の陣で自決。
京極高次の正室となった二女・初には子供がいません。
三女・江は、3度目の結婚で第2代将軍・徳川秀忠の妻となり、3代将軍家光を含め、2男5女の生母となりました。
織田家・浅井家の血を継ぐ家系は現代の天皇家にまで続きますが、これについては当サイトの別コラム「戦国の姫、お江の家系図」をご覧ください。
■今も続く信長の傍系子孫
信長の11人の弟たちのうち、信勝(信行とも呼ばれた)と長益(ながます)の系統が少なくとも明治期まで存続していたことがわかっています。
信勝は信長に謀殺されますが、その子・信澄(のぶずみ)から嫡男の昌澄(まさずみ)へと続き、そこから8代目の織田信節(のぶとき)、9代・信由(のぶよし)、10代・信一までが確認できています。
また、文武両道の人であり、有楽斎(うらくさい)と名乗って茶人としても知られた長益(有楽町の地名の由来は有楽斎の屋敷があった場所だそうです)の子孫としては、豊臣氏滅亡後に四男・長政の系統が大和国の芝村藩(奈良県桜井市)、五男・尚長が同国の柳本藩(奈良県天理市)として血統が守られました。
千利休の高弟でもあった有楽斎の流れを継ぐ茶道の有楽流・第17代宗家(織田家当主としては16代目)の「宗裕(そうゆう)」として現在ご活躍の織田裕美子さんは、四男・長政の系統です。また、柳本織田家も、20世紀まで血統が続いていたことが確認されています。
■現代まで続く信長の直系子孫
信長の血を引いた子孫は、信長の二男・信雄、七男・信高、九男・信貞によって続いていきましたが、信貞の子孫である信任は、明治になって元家臣に妻子ともに殺害されています。
【二男・信雄(のぶかつ)】
この信雄の系統だけが大名家として存続した織田信長の直系血族です。
4男・信良系の天童藩(山形県天童市)、5男・高長系の柏原藩(兵庫県丹波市)が廃藩置県まで存続しています。
高長の三男・長政の系統は高家旗本となり、信愛(のぶよし)の代には、幕末には海軍奉行並の役職となって勝海舟と共に活躍しています。その2代後には芸術家として活躍した織田東禹(とうう)・一磨(かずま)兄弟がいます。
現在フリージャーナリストとして活動している織田孝一氏の本名は信孝で、旧柏原藩織田家の18代目の当主です。つまり、織田信長の孫である織田高長の直系子孫。「血筋などの属性で判断されるのを避け、個人として生きやすくしてあげたかった」との理由で、「信」の字を名前に採用しなかった2人の息子さんがおられます。
有名な家系の子孫の方も人知れず苦労があるんですね。
【七男・信高】
信高から数えて4代目の信門(のぶかど)で江戸幕府の高家旗本となり、明治維新を迎えた9代目・信真(信実)は、のちに写真師として生計を立てたそうです。プロフィギュアスケーターの織田信成さんがこの信高の直系子孫だと自称していますが、途中の系図に不明部分があり、今のところはっきりとは分からないようです。
本能寺の変で信長と長男・信忠が亡くなり、信長の嫡孫・秀信も関ヶ原の戦いの後、若くして生涯を閉じました。
しかし、このことで織田家が滅亡したわけではありません。直系、傍系によって織田家の末裔、信長の血筋は現在まで脈々と続いています。
2020年6月
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