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織田信長の家系図【前編】信長のルーツ
戦国三英傑の筆頭、織田信長の家系を2回に分けてご紹介します。まずは前篇「信長のルーツ」です。
■織田信長は平氏だったのか?
『続群書類従』『寛政重修諸家譜』『系図纂要』などの歴史史料に伝わる織田氏の系図では、織田氏の祖先が平氏であるとされています。
しかし、これは、室町時代頃から信じられ始めた源平交代思想(日本史上の武家政権は平氏と源氏が交代するという説)の影響によるものです。
将軍・足利氏(源氏の子孫)に代わる者は、織田信長(平氏)であると世の中に示すための後付けの系図。本当の血統を示したとは考えられていません。
■織田信長=藤原信長?
実際のところ、信長自身は先祖が藤原氏だったと考えていたようです。
(本人の性格を考えると、家系や血統にはあまり興味なかったかもしれませんが)
・1549年に信長は「藤原信長」と署名
・同族の守護代・織田達勝も「藤原達勝」と署名した
・信長の実弟・織田信勝(信行)も「藤原織田勘十郎」と称した
などが記録に残っています。
■織田氏はどこから来たか
現在、織田氏の発祥地は越前国織田荘(現在の福井県丹生郡越前町)にあった越前二ノ宮・劔神社だったと考えられています。
織田氏の祖先が藤原氏と言われる根拠もそこにあります。
【信長と劔神社との関係】
劔神社を織田氏の発祥地とする証拠として、
などが挙げられます。
【越前の神職だった織田氏】
織田氏は劔神社の神官だったと言われています。
藤原信昌(のぶまさ)・将広(まさひろ)父子の一族が神官だったとき、将広が当時越前守護・斯波義将(しばよしゆき)の家臣になりました。
斯波氏が尾張守護職となったとき、1394年~1428年に活躍した守護代・織田常松(おだじょうしょう)とは、つまり藤原将広もしくは常松の子だと考えられています。
将広は、越前から尾張に派遣された際に故郷の地名をとって織田と名乗ったのです。
これが織田氏の祖先は藤原氏だったという根拠です。
ただ、劔神社の所在地・織田荘はかつて伊部郷(いべごう)と呼ばれ、忌部氏に繋がる土地でもありました。忌部氏とは古代から続く神官の家柄です。
劔神社に関わる資料には、江戸時代になっても神官が忌部姓を名乗っていたことが判っており、織田氏はその子孫だという説もあります。
織田氏が「越前丹生郡織田荘の劔神社に関係する在地豪族」だったことはほぼ間違いないのですが、祖先が藤原氏なのか忌部氏なのかは未だにはっきりしない状況です。
■斯波家に仕えた織田氏
さて、織田常松は尾張に派遣されて守護代となり、それ以降は織田一族が守護代を独占しました。
【応仁の乱で分裂する織田氏】
しかし、1467年に始まった応仁の乱では斯波氏が家督争いで対立。織田氏もそれぞれの斯波氏について対立したため、乱後の尾張国は岩倉織田氏と清洲織田氏の2つの織田氏が分担支配することになりました。
また、主君の斯波氏は応仁の乱後に没落し、越前は越前守護代の朝倉氏が、遠江は今川氏が台頭します。
【弾正忠家の台頭】
清洲織田氏に仕えた清洲三奉行に、織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)因幡守家(いなばのかみけ)、藤左衛門家(とうざえもんけ)があります。
信長の家系はこのうちの「弾正忠家」です。
その祖で、信長の曾祖父・織田良信(よしのぶ)以前の系譜はよく分かっていません。
弾正忠家は、代々、勝幡城を中心に津島や熱田に勢力を広げ、地の利を生かし、商業・貿易などで財をなし、力をつけました。
政治家、織田信長の当時としては斬新な経済政策重視の姿勢は、弾正忠家に代々育まれてきたものなのかもしれません。
良信から信定、信秀と続き、信秀と正室・土田御前(どたごぜん)との間に生まれたのが織田信長です。
信長の異母兄・信宏は側室の息子のため、信長が信秀の家督を継ぐ嫡男となりました。
そして、守護代の岩倉織田氏、清洲織田氏との争いの末、信長が尾張国を手中に収めたのです。
■まとめ
2020年5月
ファミリーヒストリーを探して
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