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日本に初めてお茶が伝えられたのは奈良時代と言われていますが、安土桃山時代に完成に至った茶道。現代でも日本を代表する伝統文化の一つとして多くの人々に親しまれています。実は、私もほんの少しだけかじったことがあります(裏千家)。
その茶道の流派の中に「表千家」「裏千家」などがあるのをご存知の方も多いことでしょう。また「武者小路千家」という名も耳にしたことがあるかもしれません。織田信長や豊臣秀吉に茶頭として仕えた千利休の教えは、これらの3つの流派に受け継がれています。その「三千家」についてご紹介していきましょう。
■千利休の子孫たち
千利休は妻が亡くなった後、後妻を迎えています。先妻や後妻との間の実子、養子や庶子を含め、男子6人、女子6人の子供があったとされています。
●千利休の後を継いだ長男・千道安の家系は断絶
先妻・宝心妙樹との間の長男・千道安(せんのどうあん)は、茶道家として高く評価され、豊臣秀吉の茶頭八人衆にもなりました。ただし、利休の後妻の子で後に養子となった千少庵とは折り合いが悪く、終生、茶席を共にすることはなかったそうです。
父、千利休が豊臣秀吉の怒りを買い切腹となった際には、謹慎に処せられました。
のちに赦され、堺で千家の家督を継いで「堺千家」を再興。しかし、跡継ぎがなかったために家系は断絶しました。
●養子・千少庵と娘お亀
千少庵(せんのしょうあん)は後妻である宗恩の連れ子でした。彼は利休の娘・お亀と結婚し、利休の養子となりました。その後、現在の地に千家を再興し、千家の礎を築いた人物として知られています。お亀との間に誕生したのが、利休の孫になる千宗旦(せんのそうたん)。
●利休の孫・千宗旦
この利休の孫・宗旦が三千家のルーツとなりました。
■茶の湯の名家「表千家」「裏千家」「武者小路千家」
宗旦は、もともと大徳寺に入っていましたが、還俗して「わび茶」の普及につとめました。彼自身は生涯仕官していません。勘当された宗旦の長男以外の3人の息子たちが大名家に仕えたことで、利休の茶の湯が後世に伝えられたのです。
宗旦の息子たち、つまり利休の曾孫たちが興した流派は
・三男・千宗左(せんそうさ)による、利休ゆかりの「不審庵」を拠点とした「表千家」
・四男・千宗室(せんそうしつ)による、不審庵の「裏」にあった「今日庵」を拠点とした「裏千家」
・二男・千宗守(せんそうしゅ)による、「武者小路通り」の「官休庵」を拠点とした「武者小路千家」
の3つです。
名前の由来は、その拠点の場所だったのですね。
■3つの千家、それぞれの特徴と違い
同じ千利休の茶の湯を伝える三千家ですが、それぞれ違った特徴があります。
【千家本流・表千家】
・古来の作法に忠実で、道具や仕草は裏千家と比べて質素。よりわびさびを感じる流派
・茶を泡立てない
・一畳を6歩で歩く
・左足から部屋に入る
・男性は紫、女性は赤の帛紗を使用
・現・家元は、第15代千宗左
【茶道界最大流派・裏千家】
・明治期・戦後に茶道復興に尽力。茶道部作りなど学校教育と関わりを持った流派
・茶を泡立てる
・一畳を4歩で歩く
・右足から部屋に入る
・男性は紫、女性は朱色の帛紗を使用
・現・家元は、裏千家16代坐忘斎宗室(ざぼうさいそうしつ)
【合理性の武者小路千家】
・流派の茶室が度重なる焼失と再建を経験したため、茶室にも所作にも無駄のない合理性を特徴とする流派
・茶を泡立てない
・一畳を6歩で歩く
・柱側の足から部屋に入る
・男性は紫、女性は赤の帛紗を使用
・現・家元は、武者小路千家14代不徹斎千宗守(ふてっさいせんそうしゅ)
細かな所作や道具に違いはありますが、いずれも茶聖と呼ばれた利休の茶の湯を伝える3つの流派。
利休の孫・千宗旦から分れた家系であり流派である、表・裏・武者小路の三千家は、共存共栄し、流派間で争うこともありませんでした。それが長く続く茶の湯の系譜の秘訣なのでしょう。
利休の茶は、これからも続いていくに違いありません。
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