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義経の腰越状が残る満福寺
■満福寺の紹介
江ノ電の腰越駅下車後徒歩3分で、鎌倉で最も古い寺院の一つ満福寺に到着します。前景を海、背景を山に持つ満福寺は、744年民間布教に熱心だった僧・行基による開山と伝えられます。現在、京都大覚寺派真言宗の寺院となっています。
本尊は秘仏の薬師三尊像。大晦日の除夜の鐘が響く時にだけ開帳されます。また、寺院では珍しく、宇賀神(うがじん)と呼ばれる頭が老人で身体が蛇の姿をした穀物の神も祀られています。
■遺された手紙「腰越状」。
満福寺には『義経記』などに登場する、源義経が兄・源頼朝に書いた有名な手紙「腰越状」の下書きが残されています。
源義経は、一の谷、屋島で平家軍を破り、1185年に壇ノ浦でついに平家一門を滅亡させた、源平合戦の最大の功労者。
しかし、彼は兄の源頼朝の怒りを買ってしまい、兄のところへ凱旋しようとしても鎌倉に入ることを許されませんでした。
そこで義経一行は鎌倉の手前の腰越にあるこの満福寺に逗留し、滞在中に義経が兄に許しを乞うための嘆願文を記したのです。それが「腰越状」です。
当寺に残っているのは、弁慶が書いたその下書きだと言われています。
「私が法皇様より、五位の尉に任命されましたのは、私のためだけではなく、兄君と源家の名誉を考えてのこと。私には野心など毛頭もございません。それにもかかわらず、このようにきついお叱りを受けては、この義経の気持をどのようにお伝えすれば、分かっていただけるのでしょうか。度々「神仏に誓って偽りを申しません」と、起請文を差し上げましたが、いまだお許しのご返事はいただいておりません。」
ひたすら兄を慕い、従うことを切々と兄に訴える義経の手紙です。
嘆願書を書いた義経は、頼朝の側近である学者の大江広元(おおえのひろもと)に託しましたが、手紙は届かなかったといいます。兄の怒りを解くことができなかった義経は、仕方なく京に戻り、兄弟の決裂は決定的になりました。1189年、義経は奥州の衣川で頼朝に圧力をかけられた藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に攻撃され、自刃しています。
<真言宗大覚寺派 龍護山満福寺:鎌倉市腰越2-4-8>
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