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明智光秀の家系とその子孫
明智光秀を簡単に説明するなら、きっと誰もが「本能寺の変で織田信長を討った人物」と言うことでしょう。それほど1582年に起きた謀反事件のインパクトは絶大です。その後、山﨑の戦いで羽柴秀吉に討たれた光秀ですが、悪人とされたため、明智光秀の家系図や資料は多くは残されていません。
■源氏の流れを汲む明智光秀
明智氏は『続群書類従』という書物の「明智系図」によると、清和源氏の中でも摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族だとされています。
土岐氏というのは明智光秀が仕えた斎藤道三に下克上されて没落してしまった美濃の守護大名でしたが、光秀はその土岐氏の庶流。土岐氏も光秀も共に家紋は桔梗紋です。当時の美濃では名門の出身であったと考えられます。
■明智光秀の家族と親戚関係
【父母】
明智光秀は謎の多い武将です。生い立ちはよくわからず、光秀の父親の名前さえも明確ではありません。一説には明智光綱ではないかと言われています。光秀の母親・お牧の方も若狭武田氏出身で、つまり甲斐源氏の血をひいていました。
【妻子】
光秀の正室は煕子(ひろこ)で、側室がいたとの説もありますが、定かではありません。3男4女説、6男7女説などがあります。それらの中で一般に最も名の知られた人物は、三女もしくは四女と言われる玉子、のちの細川ガラシャでしょう。彼女は、光秀の盟友でもあった細川藤孝の息子・細川忠興の妻となっています。
【親戚関係】
さらに、彼の親戚には帰蝶(濃姫)がいます。光秀の主君・斎藤道三と正室・小見の方との間にできた娘です。小見の方は、光秀の父親の妹と言われ、娘の帰蝶と光秀はイトコ同士となります。のち帰蝶は、政略結婚で光秀の主君となる織田信長の正室となります。つまり、光秀は主君・斎藤道三、織田信長とも親族関係にあったのです。なんとも複雑な戦国の家族事情ですね。
■こんな人とも繋がっていた
明智光秀と繋がりのある人々の多くは山﨑の合戦の敗戦で亡くなっていますが、彼の血統が全て途絶えたわけではありません。長く続いた子孫の中には、私たちが知るほどの活躍をしておられる有名な方もいらっしゃいます。
【細川護煕(ほそかわもりひろ)さん】
第79代内閣総理大臣であり、肥後熊本細川家の第18代当主。初代藩主は、ガラシャの夫の細川忠興の三男・忠利です。肥後細川家は直系男子が途絶え、養子を迎えたこともありましたが、護煕さんのおばあさんが忠利の兄・忠隆の末裔であるため、明智光秀の血が流れていることになるのです。
【細川隆元(ほそかわりゅうげん)さん、細川隆一郎(ほそかわりゅういちろう)さん】
政治評論家としてご活躍のお二人は、光秀の娘ガラシャと細川忠興の長男・細川忠隆の子孫です。
【クリス・ペプラ-さん】
J-WAVEをはじめラジオDJや声優でご活躍の彼の母方が、美濃守護大名・土岐頼芸の次男・土岐頼勝の末裔だとされています。この賴勝が光秀と血縁だった可能性があり、そうであればドイツ系アメリカ人の血が流れる彼も、光秀の末裔であるといえます。
主君織田信長を討った男として、日本の歴史では長く「悪人」のレッテルを貼られてきた明智光秀。近ごろは大河ドラマの主役に取り上げられるなど、光秀像が見直されています。多くの人の関心が光秀に集まり、更なる史料の発見やその謎の生涯の解明に繋がっていくかもしれません。
2020年2月
ファミリーヒストリーを探して
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