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夫の源頼朝か、実家の北条氏か、悪女・北条政子が選んだ家系
2022年の大河ドラマは、鎌倉幕府の第2代執権「北条義時」が主人公の「鎌倉殿の13人」に決定。舞台は鎌倉時代初期、源頼朝亡き後の権力闘争を描く。脚本は三谷幸喜さん、いまから期待が高まりますね。
その義時の姉、日本史上で男性にも負けない知名度を誇る北条政子。夫である源頼朝亡き後、鎌倉幕府を支えた女傑として知られる彼女とその家系にまつわる話をご紹介します。
■北条政子と源頼朝の婚姻は、平氏と源氏の結婚
源頼朝は、第56代清和天皇の血を引いた清和源氏の中でメインとされる系統・河内源氏の出身でした。
一方、政子は第50代桓武天皇の血を引いた桓武平氏の中でも平直方(たいらのなおかた)を祖とする板東平氏の出身。
彼女の実家は伊豆の北条に土着して北条氏と名乗った地方官吏の家です。
有名な平清盛の伊勢平氏とは別の系統であり、清盛や頼朝の家よりはるかに家格は下でした。
1159年、平治の乱の敗戦で源義朝の息子・頼朝は伊豆に流罪。政子の父・北条時政は現地で彼の監視役を務めていました。
頼朝と政子は恋愛結婚ですが、身分の高い頼朝が流人だったからこそ2人は出会いました。格差はあったものの、源氏と平氏の婚姻というわけです。
このころ、当時京での平家政権には陰りがさしており、北条氏は平家を見限って、源氏の嫡流である頼朝を援助することにしたといわれています。のちに頼朝は鎌倉幕府を興し、北条氏の選択は、結果的に正しかったことが証明されました。
■自分の家庭より実家を重視した北条政子の悪女ぶり
北条政子は政治的手腕に優れた女性である一方、「頼朝への愛情が強すぎた嫉妬の激しい悪女」としても知られます。
しかし、本当の政子のダークさは別にあるようです。のち頼朝を含め、彼の血を引く子たちは次々と命を落とし、その結果北条氏は執権として台頭しました。その陰謀に政子が関わっていた可能性があるのです。
年を追って見てみましょう。
・1199年 源頼朝が落馬事故で死亡
・1202年 源頼家が18歳で第2代将軍となる。出家した政子が頼家の後見人となる
しかし頼家は政治に興味がなく、妻の実家の比企(ひき)氏を重用。政子と彼女の実家の北条氏はそれを脅威と感じました。
・1203年 北条氏が比企氏を滅亡させ、頼家の嫡男・一幡を殺害。政子は頼家を伊豆の修善寺に幽閉
・1204年 源頼家が暗殺される
・1219年 第3代将軍源実朝が鶴岡八幡宮にて甥の公暁(くぎょう)に暗殺される。のち公暁も口封じのために暗殺される
これ以外にも頼家の他の男子2人も自害と殺害で死亡。こうして頼朝の家系は全滅しているのです。
■源氏亡きあとは、北条氏が乗っ取った鎌倉幕府
頼朝の家系が絶えて得をしたのは、将軍を支えていたはずの執権を務める政子の実家、北条氏です。
政子の父である鎌倉幕府初代執権・北条時政に続き、頼朝の死後には政子の弟・北条義時が2代目に就任。その後、北条氏の嫡流は「得宗(とくそう)家」と呼ばれ、初代執権・北条時政から16代執権・北条守時までの130年間執権職を独占したのです。
政子の夫・源頼朝、息子の頼家や実朝、孫の公暁らが死んだ中、政子は生き残り、北条氏の中枢として政治の中心に立ちました
政治的な理由かもしれませんが、妻であり母である政子が、頼朝の家系を残すことよりも、実子を犠牲にして実家の家系を守り、繁栄を望んだようにもみえてしまいます。それが事実なら、政子は稀代の悪女と言えそうです。
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