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2008年にユネスコにより「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載された、日本の伝統芸能・歌舞伎。男性だけで演じられる独特の世界観を持つ歌舞伎の歴史・系譜を辿ってみましょう。
■「カブキ」とは何か
「歌舞伎」は「傾(かぶ)き」からきた言葉です。頭を傾げるような「常識外れ」な「跳ねっ返り」で「変わった風体」という意味。目新しいことを吸収しながら「傾く」のが歌舞伎の本質です。戦国の終わりごろ、そうした者たちのことを「かぶき者」と呼んでいました。
■歌舞伎のはじまり
【阿国歌舞伎】
徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立した1603年、出雲の阿国という女性が京都の北野社の能舞台で踊ったのが最初だそうです。演目は「ややこ踊り」と呼ばれる少女の盆踊りのようなもの。阿国は男装をし、笛、太鼓、鼓などをお囃子に使って人気を博しました。
茶道大名古田織部の生涯を題材にした漫画「へうげもの」でも、当時の出雲の阿国の活躍は、面白おかしく紹介されています。
【女歌舞伎、遊女歌舞伎】
阿国歌舞伎を真似た遊女や女芸人たちが、商売の宣伝を兼ね、京都の四条河原や江戸の遊郭に舞台を設置した興業が始まります。最盛期は1615年~1629年頃。当時最新の楽器・三味線を抱えた女太夫(おんなたゆう)と共に、50~60人のきらびやかな遊女たちが歌い踊る舞台は壮観でした。のち、風紀の乱れを理由に禁止されています。
【若衆歌舞伎から野郎歌舞伎】
今度は前髪のある未成年の美少年たちが「若衆歌舞伎」を始めます。能・狂言をエロティックな歌詞や踊りでアレンジした寸劇です。これも男色で風紀が乱れると言われて禁止になると、成人男性による「野郎歌舞伎」が出現しました。官能的な舞いや踊りではなく、演劇性の強い舞台を上演し、女性を含めて全ての役をそれぞれ専門の男性演者が表現しました。
■本格的歌舞伎の発展
【江戸の荒事、京・大坂の和事】
野郎歌舞伎は、東西で違った発展をしました。新興都市の江戸では、豪快で活気のある演技「荒事」が好まれ、力強い演技が得意の初代市川團十郎が活躍。古都の伝統がある京や大坂では、洗練された優美な演技「和事」が好まれ、繊細で自然な演技で初代坂田藤十郎が人気となりました。それぞれ江戸時代の元禄年間に大きく開花したのです。
【義太夫狂言の登場】
さらに歌舞伎は人形浄瑠璃の作品を演じる「義太夫狂言」を開始。有名な『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』などの演目がそれに含まれます。
1841年の天保の改革では、幕府から奢侈を理由に弾圧に近い統制を受けた歌舞伎ですが、江戸郊外の浅草に移動して「猿若町」を興行場所として存続し、その後、江戸歌舞伎の黄金時代を迎えることになります。
■近代歌舞伎
江戸時代が終わり、明治時代に入ると、新政府の介入で、外国の要人や高官に観せるために、正確に時代考証された演目が求められ(作り話禁止?)、公演されました。しかし、この「カブいていない」歌舞伎は、大衆には人気がありませんでした。
【新歌舞伎】
19世紀の末には「新歌舞伎」が誕生しました。岡本綺堂(おかもときどう)の『番町皿屋敷』、真山青果(まやませいか)の『元禄忠臣蔵』など、歌舞伎以外の他ジャンルで活躍する作者の作品を、2代目市川左團次が盛んに演じました。新しく学生などを客層に取り込み、「古典歌舞伎」と両立しながら、大正・昭和へと続きます。
■現代歌舞伎へ
【戦後の歌舞伎ブーム】
太平洋戦争後、1945年9月に、空襲で焼け残った東京の劇場から歌舞伎が再開されました。1951年には現在の地に歌舞伎座を再建。1962年には、60年間途絶えていた市川團十郎の名跡が復活し、十一代目市川團十郎が襲名披露。歌舞伎ブームは再燃しました。
【スーパー歌舞伎へ】
歌舞伎は伝統を継承しながらも、新しい形を模索し、1986年には、3代目市川猿之助による現代風歌舞伎「スーパー歌舞伎」が上演されました。
その後も
・海外公演
・現代劇作家や演出家とのコラボレーション
・英語歌舞伎
・マンガやアニメが原作の演目の上演
これらに挑戦する現代の歌舞伎は、紆余曲折を経て幅広い客層から親しまれるエンターテイメントとなったのです。
長い歴史の中で時代の変化を取り入れ「カブいて」いるところは、昔も今も変わりません。この「生きている伝統芸能・歌舞伎」の系譜は、これからも発展し続けることでしょう。
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