家系図作成で家族の歴史をかたちに

かまくら家系図作成所

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鎌倉公方とその家系について

足利氏・家系図(略図)

 
※1~9 :将軍家の代数
※①~⑤:鎌倉公方家の代数
※1)~5):古河公方家の代数

【鎌倉公方とは?】

足利尊氏は、建武(けんむ)3年(1336年)京都に幕府を開きますが、鎌倉の重要性を認識し、嫡子義詮(よしあきら)を鎌倉に置き東国の支配にあたらせました。

貞和(じょうわ)5年(1349年)に義詮が京都に戻ると、代わって弟の基氏(もとうじ)が鎌倉へ下向しました。この基氏が、いわゆる鎌倉公方の初代とされ、以後その地位は、彼の子孫(氏満(うじみつ)・満兼(みつかね)・持氏(もちうじ))に受け継がれていきます。

鎌倉公方を頂点とする室町幕府の東国支配機関のことを鎌倉府と呼び、ナンバー2は、鎌倉公方を補佐する関東管領(かんれい)でした。関東管領の地位も、尊氏の母の実家にあたる上杉氏が世襲しました。

鎌倉府の組織は幕府とほぼ同じであり、権限も大きかったため、鎌倉公方は京都の幕府と次第に対立するようになります。

 

【鎌倉公方の屋敷跡】

鎌倉公方の屋敷は、足利氏ゆかりの浄妙寺(鎌倉五山・第五位)と隣接していたとされています。現在、屋敷は残っておらず、浄妙寺から六浦方面に進んだ先の故地の一角(鎌倉市浄明寺)に「足利公方邸旧蹟」の石碑が立てられているのみであり、往時をしのぶことは難しくなっています。

 

【幕府との衝突、内部抗争、北条氏の台頭… 鎌倉公方のその後】

持氏のとき、幕府との対立が深まり、ついに両者は軍事衝突(永享(えいきょう)の乱)に及びます。結局、持氏は敗死し、鎌倉府はいったん滅亡しますが、幕府は持氏の遺児成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任することを承認し、鎌倉府は再建されました。

その後、成氏も上杉氏と対立し、享徳(きょうとく)3年(1454年)、関東管領 上杉憲忠(のりただ)を鎌倉西御門で殺害し、これを発端として、約30年間、東国では戦乱が続きます(享徳の乱)。この内乱の過程で、成氏は下総国古河(茨城県古河市)に本拠を移し、以後成氏とその子孫(政氏(まさうじ)・高基(たかもと)・晴氏(はるうじ)・義氏(よしうじ))は古河公方と称するようになり、鎌倉府は崩壊しました。

古河公方家では、永正(えいしょう)3年(1506年)から政氏・高基父子の内紛が起き、それに乗じる形で、高基の弟であり鶴岡八幡宮の別当(雪下殿(ゆきのしたどの))であった空然(こうねん)が蜂起します。空然は、その後還俗して義明(よしあき)と名乗り、永正15年(1518年)に下総国小弓(おゆみ)城(千葉市中央区)に入り、政氏の後継者であると主張して、小弓公方と呼ばれるようになります。

16世紀後半になると、関東では北条氏(後北条氏)が勢力を拡大していき、古河公方家はその支配下に置かれるようになります。天正(てんしょう)11年(1583年)に義氏が男子のないまま死去した後は、娘の氏姫(うじひめ)を中心として存続することになりました。

天正18年(1590年)、小田原合戦で北条氏が滅ぶと、羽柴(豊臣)秀吉は、古河城に残されていた氏姫と、小弓公方義明の孫国朝(くにとも)とを結婚させ、下野国喜連川(きつれがわ)(栃木県さくら市)に所領を与えました。この系統は、江戸時代に喜連川氏を称し、明治維新を迎えます。明治になってからは足利姓に戻し、子爵となりました。

 

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司法書士・行政書士 日永田一憲

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