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鎌倉幕府歴代執権・北条氏 家系図

鎌倉幕府歴代執権・北条氏 家系図

日本最初の武家政権である鎌倉幕府。この時代は中世への転換点といわれていますが、朝廷、幕府、北条氏をはじめ御家人たちの権力闘争は凄まじいものがありますね。

初代執権 北条時政

在職:建仁3年(1203年)9月~元久2年(1205年)閏7月 

期間:1年11か月

出身は伊豆の在庁官人であった可能性が高い(土豪説もあり)。

源頼朝の岳父。頼朝没後、御家人間の数々の権力闘争を経て幕府権力の頂点に上りつめた。元久2年(1205年)将軍の実朝を廃し、平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしたが、陰謀が露見し失脚。建保3年(1215年)北条の地で死去。享年78。

 

二代執権 北条義時

在職:元久2年(1205年)閏7月~貞応3年(1224年)6月13日

期間:18年11か月

出身:得宗家

北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。北条氏嫡流(得宗家)2代目当主。

父時政没落後、執権に就任。以降の幕府政治は姉政子と義時、政所別当・大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣・安達景盛らを中心に運営されていく。幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を建保元年(1213年)2月、和田合戦において滅ぼし、義時は義盛に代わって侍所別当となった。政所別当と合わせて幕府の最も枢要な職を独占し、北条氏の幕府指導者としての地位が定まった。

承久元年(1219年)正月、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、三代将軍・実朝が頼家の子公暁によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶した。この間、朝廷では後鳥羽上皇を中心に討幕計画が進められ、挙兵、義時追討の宣旨が発せられた。幕府側は一致団結し、この難局に対処し、早々に京都を制圧した(承久の乱)。この戦乱の結果、鎌倉幕府が京都政権に対し、優位に立ち、朝廷を支配・監督する状況が生まれた。また、京都には、北条氏一族を留め、朝廷を監視させた。これが幕府の出先機関である六波羅探題のはじまりである。

元仁元年(1224年)6月13日没。享年62。

 

三代執権 北条泰時

職:貞応3年(1224年)6月28日~仁治3年(1242年)6月15日

期間:18年

出身:得宗家

北条義時の長男。承久の乱では、幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任。父義時急死により、鎌倉へ戻り執権に就任。

承久の乱以降、各地で所領をめぐる紛争が頻発した。紛争解決のため、統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになり、泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、貞永元年(1232年)8月、全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。この法典が「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」と呼ばれるようになる。

仁治3年(1242年)5月9日死去。享年60。

四代執権 北条経時

在職:仁治3年(1242年)6月15日~寛元4年(1246年)3月23日 

期間:3年9か月

出身:得宗家

三代執権北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。

執権就任後は、訴訟制度の改革を行い、訴訟手続きの迅速化に努めた。

寛元2年(1244年)4月に将軍頼経を更迭。新将軍には頼経の子の九条頼嗣を擁立した。

寛元4年(1246年)没。享年23。

 

五代執権 北条時頼

在職:寛元4年(1246年)3月23日~康元元年(1256年)11月22日

期間:10年8か月

出身:得宗家

北条時氏の次男で、四代執権北条経時の弟。兄から執権職を譲られる。執権に就任当初は、幕府中枢から支持を得られなかったが、最有力御家人である三浦氏をはじめ、反対勢力を次々に打倒し、北条得宗家の地位を盤石のものにした。

権力掌握後は、引付衆の設置による裁判制度の改革、民衆の保護、都市鎌倉の整備など数々の善政を行った名執権としても知られる。

病気を機に執権職を北条長時に譲り、引退・出家したが、幕府の実権は依然として時頼の手にあった。このように引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった。

また、禅宗への信仰が篤く、南宋から蘭渓道隆を鎌倉に招いて、建長寺を開創したことは特に有名である。

弘長3年(1263年)11月8日死去。享年37。

 

六代執権 北条(赤橋)長時

在職:康元元年(1256年)11月22日~文永元年(1264年)7月3日

期間:7年7か月

出身:極楽寺流

六波羅探題北方・連署を務めた北条重時の次男として生まれる。父重時からはじまる北条氏の門流を「極楽寺流」といい、得宗家に次ぐ家格を有した。

五代執権時頼が病のため、時頼の嫡男・北条時宗に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎ(眼代)として長時に白羽の矢が立ち、得宗家以外から初の執権に就任した。

浄光明寺の開祖としても知られる。

1264年(文永元年)7月3日死去。享年35。

七代執権 北条政村

在職:仁治3年(1242年)6月15日~寛元4年(1246年)3月23日 

期間:3年7か月

出身:政村流

二代執権北条義時の五男。北条一門として兄泰時の家系「得宗家」を支え続け、52歳で連署に就任。

文永元年(1264年)7月、得宗家の後継者で、まだ14歳である若年の時宗の中継ぎとして60歳で七代執権に就任した。

文永5年(1268年)、元寇という難局を乗り切るため、得宗家当主である18歳の時宗に執権職を譲り、再び連署に就任し、時宗を支えた。尚、執権経験者が連署を務めた例は他に無い。

文永10年(1273年)5月死去。享年69。

 

八代執権 北条時宗

在職:文永5年(1268年)3月5日~弘安7年(1284年)4月4日

期間:16年1か月

出身:得宗家

五代執権北条時頼の次男。異母兄がありながら、母が正妻であったため、生まれながらにして嫡子とされた。

文永元年(1264年)7月、六代執権の北条長時が出家、北条政村が七代執権となり、8月には時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。

文永5年(1268年)正月、高麗の使節が元の国書を持って大宰府を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月5日には政村から執権職を継承し、時宗は18歳で八代執権となる。以後、34歳で亡くなるまで執権であり続けた。

よって、時宗の執権在職期間は、二度の蒙古襲来「文永の役」「弘安の役」と重複する。そしてこの時代には、幕府の統制外にあった非御家人にも対蒙古防衛を理由に軍事動員がなされ、全ての武士階級が幕府の統制下に入った。

また、日本国内、幕府内の反対勢力に対しても苛烈に臨み、権力の集中と世論統一を図った。これらにより、時宗の代で得宗家の専制が確立されたといわれている。

文永11年(1274年)、元軍が日本に襲来(文永の役)、激戦の末に元軍の進撃を阻止した。翌年、降伏を勧める使節が来日すると、鎌倉で引見し、処刑する。

弘安4年(1281年)の弘安の役では、元軍は、台風を受けて混乱、日本軍の総攻撃により壊滅した。

こうして時宗は二度の元軍の襲来を撃退したが、戦後、御家人などに対する恩賞問題などが発生、財政難のなかで3度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化しなければならないなど、国内外に難題が積み重なっていた。

弘安7年(1284年)自らの死期を悟り、4月4日出家、同日に死去。自らが開いた鎌倉山ノ内の円覚寺に葬られた。享年34。

 

九代執権 北条貞時

在職:弘安7年(1284年)4月4日~正安3年(1301年)8月22日

期間:17年4か月

出身:得宗家

文永8年12月12日(1272年1月14日)、北条時宗の嫡男として鎌倉に生まれる。

弘安7年(1284年)、父・時宗が病死し執権に就任する。就任直後の治世は安定せず、幕政は貞時の外祖父(ただし血縁上は外伯父)である有力御家人で弘安徳政を推進していた安達泰盛が掌握するが、泰盛の施策は得宗家の勢力を削減して御家人らの既得権益も犯したために幕府内で孤立した。

このため得宗家執事(内管領)で貞時の乳母の夫にあたる平頼綱ら反安達勢力との対立が激化する。

弘安8年(1285年)11月17日、頼綱の讒言により泰盛を討伐する命を下す(霜月騒動)。これにより泰盛派は一掃され、頼綱が実権を掌握して権勢を振るった。

安達泰盛を滅ぼした平頼綱は若年の貞時を擁し、強圧的な政権運営を行なうが、有力御家人らの反勢力による不満が高まり、成長した貞時からも見切りをつけられることになった。

正応6年(1293年)4月22日、頼綱とその一族を鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて誅殺した(平禅門の乱)。

実権を取り戻した貞時は、父の時代へ回帰することを基本方針として得宗家主導の専制政治を強力に推し進めた。この時代は、六波羅探題、鎮西探題などの地方統治機構が整備され、幕府の支配体制が確立した時代でもある。北条一門は朝廷からも特別に処遇され、国政に参与する一族として正式に位置づけされた。

正安3年(1301年)、貞時は出家し、執権職を嫡子高時への中継ぎとして、北条師時に譲ったが、出家後も幕府内に隠然と政治力を保った。

嘉元3年(1305年)4月、内管領の北条宗方によって貞時の命令として連署の北条時村が殺害される事件が起こった。しかし、貞時は、時村殺害は誤りとして、宗方の陰謀として宗方とその与党を誅殺した(嘉元の乱)。

この事件をきっかけに、貞時は政治から遠ざかるようになる。このような状況下で、嫡子高時を擁した得宗家の被官勢力が再び勢力を伸ばしていった。

1311年(応長元年)10月26日死去。享年40。

十代執権 北条師時

在職:正安3年(1301年)8月22日~応長元年(1311年)9月21日 

期間:10年1か月

出身:宗政流

父は第8代執権・北条時宗の同母弟である北条宗政。母は第7代執権・北条政村の娘。父の死後に伯父・時宗の猶子となる。

正安3年(1301年)、貞時の出家に伴い執権に就任。貞時の嫡男である北条高時(後の14代執権)が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、幕政の実権は貞時に握られていた。

貞時の死の1ヶ月前である応長元年(1311年)9月22日に出家し、同日に死去した。享年37。評定中にその座でそのまま死去したと伝わる。

 

十一代執権 北条(大仏)宗宣

在職:応長元年(1311年)10月3日~応長2年(1312年)5月29日

期間:8か月

出身:大仏流

北条宣時(大仏宣時)の子。大仏家の総領として、幕府の要職を歴任。元服時に得宗家当主の北条時宗より一字を賜り、宗宣と名乗る。

永仁5年(1297年)から六波羅探題南方に就任し、乾元元年(1302年)まで在京。嘉元の乱においては得宗の北条貞時の命令で北条宗方を討った。

嘉元3年(1305年)7月22日、連署となる。応長元年(1311年)9月22日、執権であった北条師時の死去により、10月3日に連署から昇格して第11代執権に就任した。

正和元年(1312年)6月12日に死去。享年54。

 

 

十二代執権 北条煕時

在職:応長2年(1312年)6月2日~正和4年(1315年)7月12日

期間:3年1か月

出身:政村流

父は北条為時 (政村流)で、第7代執権・北条政村の曾孫にあたる。

応長元年(1311年)9月に第10代執権の北条師時が死去して連署だった大仏宗宣が第11代執権に就任すると、10月3日に煕時は連署に就任した。正和元年(1312年)6月2日に宗宣が出家すると12代執権に就任する。しかし、実権は内管領の長崎円喜らに握られていた。

正和4年(1315年)7月11日に病のため執権職を辞して北条基時に譲り、同日に出家、7月18日に病のために死去した。享年37。

十三代執権 北条(普恩寺)基時

在職:正和4年(1315年)7月12日~正和5年(1316年)7月9日 

期間:1年

出身:極楽寺流

父は普恩寺流の北条時兼。子に最後の六波羅探題北方となった北条仲時がいる。

正和4年(1315年)7月11日に先代の執権であった北条煕時が病で執権職を辞任したため、執権に就任。

正和5年(1316年)、得宗の北条高時に執権職を譲り、出家。

元弘3年/正慶2年(1333年)5月、鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞らが上野で挙兵して鎌倉に攻め上ってくると、北条貞顕や安房・上野・下野の御家人らと共に化粧坂の守備を務めた。5日間の激戦の末に極楽寺坂や巨福呂坂など別の攻め口から突破した新田軍が鎌倉市街に侵入したため、この合戦の2週間前に近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように、残り少なくなった部下と共に自害した。享年48。

 

 

十四代執権 北条高時

在職:正和5年(1316年)7月10日~正中3年(1326年)2月13日

期間:9年7か月

出身:得宗家

嘉元元年12月2日(1304年1月9日)、北条貞時の三男として生まれる。

応長元年(1311年)、9歳の時に父貞時が死去。貞時は死去の際、高時の舅・安達時顕と内管領・長崎円喜を幼い高時の後見として指名した。

その後、高時まで三代の中継ぎ執権を経て、正和5年(1316年)、14代執権となる。その頃には長崎高資が権勢を強めていた。在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起きた。

正中元年(1324年)、京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変では、倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、計画に加担した者も処罰された。

元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。4月に高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って、5月7日に六波羅探題を攻略。同月8日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。

18日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると、22日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年30。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺に祀られている。

 

 

十五代執権 北条(金沢)貞顕

在職:正中3年(1326年)3月16日~同3月26日

期間:11日間

出身:金沢流

父は金沢流の北条顕時。金沢文庫で有名な北条実時の孫に当たる。

正和4年(1315年)、北条基時が執権になると貞顕も連署に就任。正和5年(1316年)7月に北条高時が執権就任後は、高時を補佐することになった。

正中3年(1326年)3月、北条高時が執権職を辞職して出家すると、高時の子の邦時成長までの中継ぎとして擁立されて15代執権に就任する。

だが貞顕の執権就任に反対した勢力により、窮地に立たされた貞顕は10日後の3月26日に執権職を辞職した。

元弘3年/正慶2年(1333年)、高時と共に北条得宗家の菩提寺である鎌倉・東勝寺に移り、新田軍戦った後、自刃(東勝寺合戦)。享年56。

 

 

十六代執権 北条(赤橋)守時

在職:嘉暦元年(1326年)4月24日~元弘3年(1333年)5月18日

期間:7年1か月

出身:赤橋流

鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。父は赤橋流の北条久時。室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。

嘉暦元年(1326年)3月、16代執権となる。しかし実権は、出家していた北条得宗家の北条高時や内管領・長崎高資らに握られていた。在職期間は幕府滅亡までの7年間にあたる。

正慶2年/元弘3年(1333年)5月、姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化した。

5月18日、裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため、新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、激戦を繰り広げるが、洲崎で自刃。享年39。

鎌倉幕府滅亡後、北条氏の血脈は、赤橋氏出身の登子が生んだ室町幕府二代将軍足利義詮に伝えられていく。

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司法書士・行政書士 日永田一憲

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