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源頼朝から約150年続いた鎌倉時代、歴代将軍は、1代~3代が源氏、4代・5代が藤原氏(源頼朝の血縁)、6代~9代が親王将軍です
当事務所のある、鎌倉といえば源氏と北条氏のお膝元。何度も大河ドラマの題材にもなった鎌倉幕府ですね。私は、子供の頃に見た岩下志麻さんが演じた北条政子が忘れられません(草燃える、1979年)。
じっくりと家系図を眺めてみると、歴史的人物たちが浮かび上がり、栄枯盛衰が生々しく感じられます。
鎌倉時代の始まりには諸説あるが、いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府の初代征夷大将軍。江戸時代末まで約700年続く武家政治の根幹を作った人物。
久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸にて生まれる。
歴代の父祖は、清和天皇、臣籍降下した源経基、多田源氏の祖の源満仲、河内源氏の祖の源頼信、前九年の役の源頼義、後三年の役の源義家、源義親、祖父の源為義。母は藤原季範の娘の由良御前。乳母は比企尼、寒河尼、山内尼。
人生の時期区分
【第1期】軍事貴族源義朝の嫡子(1歳~14歳)
【第2期】伊豆の流人(14歳~34歳)
【第3期】鎌倉幕府の首長(34歳~53歳)
平治元年(1159年)、父義朝は藤原信頼と共に後白河上皇と二条天皇を内裏に捕える(平治の乱)。当時、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられるが、上皇と天皇が逃れ、官軍となった平清盛らと戦い、賊軍となった義朝らは敗れ、京を逃れ、東国を目指す。
永暦元年(1160年)、頼朝は近江国で捕えられるが、清盛の継母の池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられ、伊豆へ流された。
治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子である以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。頼朝は事態を静観していたが、平家が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てたため、挙兵を決意する。挙兵後は、木曽義仲との戦い、平家との戦い、義経追放などを経て、建久3年(1192年)、征夷大将軍に任ぜられた。
建久10年(1199年)に死去。享年53(満51歳没)。
寿永元年(1182年)、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる。幼名は万寿。母は北条政子。頼朝36歳、待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。
政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、今も残る「段葛を」作った。
頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女(河越重頼室)が呼ばれ、梶原景時の妻の他、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。
建久10年(1199年)、父・頼朝が急死すると、家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。
しかし、従来の習慣を無視した独裁的判断を行ったことで、家督を相続して3ヶ月後、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を裁断することは停止された。
建仁3年(1203年)、頼家の後ろ盾である比企一族は、北条氏らに滅ぼされた(比企能員の変)。頼家は、北条時政討伐を命じるが従う者はなく、9月鎌倉殿の地位を追われ、千幡(実朝)がこれに替わった。これによって時政は幕府の実権を握る事になる。頼家は伊豆国修禅寺に護送され、翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏によって殺害された。享年23(満21歳没)。
建久3年(1192年)鎌倉で生まれる。幼名は千幡。父、源頼朝の次男として生まれ、北条氏の庇護のもと、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。実際の政治は執権を務める北条氏などが主導したが、官位の昇進も早く、建保6年(1218年)武士として初めて右大臣に任ぜられた。しかし、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺される。ここに鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。
藤原定家から添削を受けて和歌を学び、歌集「金槐和歌集」を遺した歌人としても知られる。
建保7年(1219年) 1月、鶴岡八幡宮で甥の公暁に襲われ殺害された。享年28(満26歳没)。
九条道家と西園寺公経の娘・倫子の子として生まれる。
建保7年(1219年)に3代将軍・源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとしたが、後鳥羽上皇に拒否される。そのため源頼朝の妹のひ孫にあたる2歳の頼経が鎌倉に迎え入れられた。鎌倉下向から数年間は北条政子が尼将軍として三寅を後見して将軍の代行をしていた。その後、承久の乱をはさんで、6年後の嘉禄元年(1225年)、元服し頼経と名乗る。翌嘉禄2年(1226年)、将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。
北条氏が担ぎ上げた傀儡将軍であり、将軍としての実権はなかったが、反執権勢力が接近し勢力を強めていった。結局、頼経派は敗北し、将軍職を嫡子頼嗣に譲り、鎌倉を追放された。
康元元年(1256年)、39歳、京都で病死。
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経と藤原親能の娘・大宮殿の子として鎌倉で生まれる。
寛元2年(1244年)、当時の執権北条経時を烏帽子親として元服、父頼経の譲りによりわずか6歳で将軍に就任した。
寛元4年(1246年)、父頼経が京へ追放され、翌宝治元年(1247年)の宝治合戦で将軍家を擁する三浦氏らが滅亡した後も、頼嗣は将軍として鎌倉に留まった。しかし建長3年(1251年)、幕府は後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を新将軍とすることに決定。翌年、頼嗣は14歳で将軍職を解任され、母大宮殿とともに京へ追放された。
康元元年(1256年)父頼経が死去し、続いて頼嗣も死去。享年18。
後嵯峨天皇の第一皇子。鎌倉幕府6代将軍(皇族で初めての征夷大将軍)。
母方の身分が低いために皇位継承の望みは絶望的であり、後嵯峨天皇は親王の将来を危惧していた。その一方で、将軍家と摂関家の両方を支配する九条道家(頼嗣の祖父)による幕府政治への介入に危機感を抱いていた執権北条時頼も、九条家を政界から排除したいという考えを持っていた。ここにおいて天皇と時頼の思惑が一致したため、「皇族将軍」誕生の運びとなった。
文永3年(1266年)、正室の近衛宰子と僧・良基の密通事件を口実に謀叛の嫌疑をかけられ、北条政村(執権)・時宗(連署)らにより将軍の解任と京への送還が決定された。
文永11年(1274年)、薨去。33歳。
鎌倉幕府第7代征夷大将軍。6代将軍宗尊親王の嫡男。文永元年(1264年)鎌倉で生まれる。
宗尊親王が廃されて京都に送還され、3歳で征夷大将軍に就任した。初めは親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、征夷大将軍に就任したのちに臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。
今日では宮将軍の一人として惟康親王と呼ばれることが多いが、実は将軍在職期間の大半を源惟康すなわち源氏将軍として過ごしていた。
これは、当時の蒙古襲来(元寇)という未曽有の事態に対する、執権・北条時宗による政策の一環であったとされ、時宗はかつての治承・寿永の乱あるいは承久の乱を先例として、将軍・源惟康を初代将軍・源頼朝になぞらえ、時宗自身は北条義時を自称することで、御家人ら武士階級の力を結集して、元に勝利することを祈願したといわれている。
また、北条氏がその後見として幕府の政治を主導することによって、北条氏による得宗専制の正統性を支える論理としても機能していた。特に源氏賜姓と正二位昇叙はいずれも時宗政権下で行われており、時宗が源氏将軍の復活を強く望んでいたことが明らかである。
弘安10年(1287年)、幕府の要請で皇籍に復帰して朝廷より親王宣下がなされ、惟康親王と名乗ることとなった。26歳となった正応2年(1289年)9月には将軍職を解任され京に戻された。
嘉暦元年(1326年)10月30日薨去。享年63。
持明院統初代後深草天皇の皇子として生まれた。
正応2年(1289年)9月、従兄にあたる前将軍・惟康親王が京に送還されたことにより、征夷大将軍に就任。
当時、将軍は名目的な存在に過ぎなかったゆえ、在職中は特に業績もなかったが、和歌を学んでいた久明親王は鎌倉歌壇の中心として歌合を主催しており、執権の北条貞時も複数の和歌を久明親王家で詠んでいる。
親王自身の和歌も22首が『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続千載和歌集』など8つの勅撰集に入集している。
延慶元年(1308年)8月に北条氏によって将軍職を解任され、京に送還され出家した。交代する形で8歳の子の守邦親王(前将軍惟康親王の娘との間に出来た子)が将軍となった。
鎌倉幕府の皇族将軍は先々代宗尊親王・先代惟康親王と追放のようなかたちで京都へ送還されていたが、久明親王の場合京都へ送還された後も幕府との関係は平穏であった。
嘉暦3年(1328年)。享年53。
8代将軍久明親王と、7代将軍惟康親王の娘の間の子として生れる。鎌倉幕府最後の将軍。源家の血をかすかに伝えている。
延慶元年(1308年)8月、父に代わってわずか8歳で征夷大将軍に就任した。当時幕府の実権は執権の北条氏(中心は得宗家)が握っており、父惟康親王同様、将軍は名目的な存在に過ぎなかった(その北条得宗家の当主である北条高時の地位すら形骸化し、真の実権は長崎円喜ら御内人が握っていた)。そのため将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっていない。
元弘3年5月22日、足利義詮や新田義貞の攻撃により鎌倉は陥落し、鎌倉幕府は滅亡した。同日に得宗の高時以下北条一族の大半は東勝寺で自害して果てた(東勝寺合戦)が、その日の守邦親王の行動は何も伝わっておらず、ただ将軍職を辞して出家したという事実のみしかわかっていない。守邦親王は幕府滅亡後の三カ月後に薨去したと伝えられているが、その際の状況も全くわかっていない。享年33。
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